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女人成仏 [『浄土和讃』を読む(その115)]

(17)女人成仏

 次は「大経和讃」の10首目となります。

 「弥陀の大悲ふかければ 仏智の不思議をあらはして 変成男子(へんじょうなんし)の願をたて 女人成仏ちかひたり」(第60首)。
 「弥陀の大悲はふかくして、不思議の智慧をあらわして、男子と生まれ変わらせて、女人成仏かなえたり」。

 変成男子の願と言いますのは第35願で、「それ女人ありて、わが名字を聞き、歓喜信楽し、菩提心をおこし、女身を厭悪(えんお)せん。いのち終わりてのち、また女像とならば、正覚をとらじ」とあります。この文面では男子に生まれかわるとしか言われていませんが、それは女人のままでは成仏できないという前提があったからで、女人は男子に生まれかわって成仏できるのだと言っているのです。
 第18願は「十方の衆生」が往生できると言っており、そこに性の区別はありません。しかし、当時の人々にあっては、暗黙のうちに五障三従(ごしょうさんしょう、五障とは仏など五つのものになれないということ、三従とは幼いときは親に、若いときは夫に、夫亡きあとは子に従うということ)の女性は成仏できないという前提があったということです。ちょうど『アメリカ独立宣言』が「われわれは次の真理を自明なものと認める。すべての人間は平等に創られていること」と高らかにうたいあげたとき、「すべての人間」の中に黒人奴隷は含まれていなかったのと同じ構図です。当時のアメリカ市民(白人)の意識において、黒人奴隷は「人間」ではなかった。
 十方の衆生が往生できると言われても、みんなの意識において「十方の衆生」の中に女性は含まれていなかったのです。
 親鸞が「弥陀の大悲ふかければ」とうたった趣旨は、男女にかかわらず往生できるのは当然なのだが、女性に対する社会通念を慮り、方便として「変成男子」の願が立てられたのであって、そこに深い配慮があるのだということでしょう。ぼくらは五障三従なんて古い話で自分とは縁のないこととしてしまいがちですが、そう言う自分の中に性差別をはじめさまざまな差別の芽が孕まれていないかを見るべきです。自らを上におき、他を下に見る差別のこころはむかしもいまも変わりありません。

タグ:親鸞を読む
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