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至心発願せるゆゑに [『浄土和讃』を読む(その119)]

(2)至心発願せるゆゑに

 「どうしてわたしはこんなに不幸なのでしょう。どうしたらこの憂悩から抜け出せるでしょう」と悲嘆にくれる韋提希夫人に釈迦はどう言ってあげることができるか。「あなたには弥陀の大いなる願いがかけられていますからなにも悩むことはありません」と言うだけで韋提希夫人は救われるでしょうか。もし韋提希夫人がすでに本願のひかりに遇っていれば、もう救われているはずですから、そもそも釈迦に救いを求めることはないでしょう。しかしまだ遇っていないとしますと、弥陀の本願がありますからもう大丈夫ですと言っても、何のことかと訝しく思われるだけです。
 そこで釈迦は韋提希夫人に「こころから救いを願いなさい(心を至し発願して)」と言い、救いを得ようとすれば「それにふさわしい身となるよう努めなさい(もろもろの功徳を修し)」と勧めるのです。そしてそのための方法(定善と散善)を説いていきます。これはわれらの常識にかない、実に分かりやすい。しかし、釈迦がこのように言うのはあくまで方便です。往生という救いはわれらが「もろもろの功徳を修し」て手に入れるものではなく、弥陀の大悲よりもたらされるものです。前にも言いましたように、ベクトルの向きが真逆です。
 ではどうして方便を説くのか。それに親鸞は次の和讃でこんなふうに答えます。

 「諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり」(第63首)。
 「定散諸善みなともに、まごころからの願いゆえ、往生のためはたらいて、たよりとなるに違いなし」。

 韋提希夫人はこころから「お助けください」と願った。そしてそのためにどうすればいいかを必死に求めた。だからこそ、その「諸善万行」が方便として意味を持ってくるのだと親鸞は言うのです。こころから願い、必至に求めれは、救いが得られるというのではありません。それでは自力聖道門です。そうではなく、至心発願の道すじにおいていつか弥陀の本願に遇うことができるというのです。

タグ:親鸞を読む
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