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三願転入 [『浄土和讃』を読む(その120)]

(3)三願転入

 「願われているから願うことができる」と言いました、これが他力の真実だと。その真実に出会うことで救われるのですが、しかしその出会いは切実に願うことのなかで起こります。
 ですから「願うから願われていることに気づく」とも言えます。願わなければ他力との出会いはありません。ただ、繰り返しになりますが、願えば他力との出会いがあると言うことはできません。他力との出会いがどのようにして起こるかは知りようがありません。出会おうとして出会えるのなら、「どのようにして」と言えるでしょうが、他力との出会いは、気づいたときにはもうすでに起っているのです。
 ここまで考えてきまして、方便と言いますのは、すでに他力と遇った人が、自分自身がどんなふうにして他力と遇うに至ったかを語る、その語り口であることに気づきます。どうすれば遇うことができるかを語ることはできません。語れるのは、自分がどのようにして遇ったかだけです。親鸞は「化身土巻」においてそれをしています。有名な「三願転入」のくだりです。
 そこで「ここをもて愚禿釈の鸞、論主(龍樹、天親)の解義をあふぎ、宗師(曇鸞、道綽、善導など)の勧化によりて、ひさしく万行諸善の仮門(第19願)をいでて、ながく双樹林下の往生をはなる」と述懐していますのは、自分は長いあいだ救いを求めて「万行諸善の仮門」をウロウロしていたが、その道程において本願のひかりに気づくことができたと喜んでいるのです。
 親鸞は叡山時代の長い修行を思い浮かべているに違いありませんが、それを「無駄な回り道をしてきたものだ」というように受け取りますと、おそらく親鸞の真意からそれるでしょう。親鸞はむかしをふり返りながら、「諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり」と、何か見えない力が働いて「諸善万行」の道を歩いてきたが、その道中において思いがけず本願に遇えたと感じているに相違ありません。

タグ:親鸞を読む
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