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至心に回向して [『浄土和讃』を読む(その121)]

(4)至心に回向して

 さて次の和讃は第19願から転じて第20願をうたいます。

 「至心・回向・欲生と 十方衆生を方便し 名号の真門ひらきてぞ 不果遂者(ふかすいしゃ)と願じける」(第64首)。
 「至心・回向・欲生と、衆生のために方便し、名号の門ひらいては、かならず救うと誓いたり」。

 第20願を見ておきましょう。「十方の衆生、わが名字をききて念をわがくににかけて、もろもろの徳本をうへて、心を至し回向してわがくにに生ぜんとおもはん。果遂せずといはば正覚をとらじ」。前にちらっと触れましたが、親鸞は第19願と同様に、この第20願も方便の願と捉えます。第19願を「仮門」と言っていたのに対して、第20願は「真門」と呼んでいますから、こちらは真実の願かというと、そうではありません。「わが名字をききて念をわがくににかけ」はするものの、念仏を「回向して」往生しようとする点で、あくまで自力念仏です。
 第19願は「至心・発願・欲生」でしたが、第20願は「至心・回向・欲生」です。前者は「こころから往生を願う」ということで、後者は「こころから往生のために念仏する」ということです(回向するとは「ふり向ける」ということで、いまの場合、往生のために念仏をふり向けるということです)。われらが「こころから往生を願う」なかで、ふと弥陀から願われていることに気づくように、われらが「こころから往生のために念仏する」なかで、ふと弥陀から念仏されていることに気づくことがあります。こうして、願われているから願うことができるように、念仏されているから念仏することができることに思い至るのです。
 そのことを教えてくれるのが、第18願成就文です。そこにも「至心・回向・欲生」が登場します、「聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向、欲生被国、即得往生、住不退転」と。この「至心回向、欲生彼国」は伝統的に「至心に回向して、かの国に生ぜんとおもはば」と読まれてきましたが、親鸞は「至心に回向したまへり。かの国に生ぜんとおもはば」と驚くべき読み方をするのです。そうすることで、至心に回向するのはわれらではなく、弥陀であると教えてくれるのです。

タグ:親鸞を読む
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