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阿弥陀経 [『浄土和讃』を読む(その122)]

(5)阿弥陀経

 われらが念仏するなかで、「まてよ、こちらから至心に回向していると思っていたが、実は向こうから至心に回向されているのではないか」と気づく。回向されているから回向することができるのだと気づくのです。これが本願のひかりに遇うということですが、さてしかしこのように本願のひかりに遇うことができたのも、至心に回向しようとしていたからのことです。回向されているから回向することができるのですが、翻ってみれば、一生懸命回向しようとしたから回向されていることに気づくことができたのです。だからこそ第20願があるのです。第18願からふり返ってみてはじめて、どうして第20願があるのかが了解できるのです。
 次の和讃は第20願と『阿弥陀経』を結びつけてうたいます。

 「果遂の願によりてこそ 釈迦は善本・徳本を 『弥陀経』にあらはして 一乗の機をすすめける」(第65首)。
 「二十の願によりてこそ、釈迦は『小経』あらわして、南無阿弥陀仏しめしてぞ、ひとしくみなにすすめたり」。

 『阿弥陀経』は『小経』と呼ばれ、簡潔に念仏往生の教えを説いていますが、その焦点は次のくだりにあります。「舎利弗よ、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞き、名号を執持するに、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心不乱ならば、その人命終る時に臨んで、阿弥陀仏はもろもろの聖衆とともに、その前に現在したもう」。ここで「名号を執持する」と言っているのは、名号を称えることに他なりません。親鸞は和讃のなかで名号を称えることを「善本・徳本」と呼んでいるのです。
 臨終の来迎を願いながら、一心に称名念仏する姿が浮かび上がります。これが浄土教のもっとも一般的なイメージと言っていいでしょう。しかし親鸞はこう言います、「来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆへに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあふて、すゝめらるゝときにいふことばなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず」(『末燈鈔』第1通)と。

タグ:親鸞を読む
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