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顕彰隠密(けんしょうおんみつ) [『浄土和讃』を読む(その124)]

(7)顕彰隠密(けんしょうおんみつ)

 それを次の和讃はこううたいます。

 「定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ をしへざれども自然に 真如の門に転入する」(第66首)。
 「自力でとなう念仏も、果遂の誓いあればこそ、おしえてもらうこともなく、本願海に転入す」。

 「定散自力の称名」が第20願の真門をさし、「真如の門」が第18願の選択の願海をさしていることは言うまでもありません。そして「をしへざれども自然に」とは「如来の深いおはからいによって」ということです。第20願の真門は方便であって、如来のはからいでおのずと第18願の海に入るのだと言っているのです。くどいようですが、そのように見えるのは、本願のひかりに遇ったからで、そうしてはじめて「往生のために一心に念仏する」ことは方便として勧められていたことに気づくのです。
 すべては事後的に明らかになるのであるということ、これをもうひとつ別の観点から見てみましょう。
 「化身土巻」で展開されている注目すべき論理が「顕彰隠密」です。経に説かれている教えには二つの側面があって、ひとつは「顕彰」つまり「文面に顕われている表の意味」で、もうひとつは「隠密」つまり「その裏に隠されている真意」であると言うのです。これを「事前と事後」の補助線と重ね合わせますと、顕彰が事前に当たり、隠密が事後に相当します。すなわち、まだ本願のひかりに遇う前は、経の文言はその表に顕われている面しか見えてこないが、ひかりに遇うと、その裏に隠されている真意が浮かび上がってくるということです。
 第20願については、その顕彰から言いますと「定散自力の称名」を勧めていますが、その隠密では「真如の門」を指し示しているのです。まだ本願のひかりに遇う前には、経に書いてある通りに、臨終の来迎のために一心に念仏せよと勧めているように思えますが、ひかりに遇った後には、自力の念仏が勧められるのは、一心に念仏するなかで本願のひかりに遇うことができるよう願われているのだと、おのれのこし方をふり返ることで気づかされるのです。

タグ:親鸞を読む
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