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本願のひかりに遇った後 [『浄土和讃』を読む(その125)]

(8)本願のひかりに遇った後

 かくして、一方では第20願や『小経』において、臨終の来迎を待ち望みながら一心に念仏せよと勧められているのに、他方で「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と否定されるのはどうしてかがはっきりします。前者が顕彰で、後者が隠密なのです。あるいは前者が事前で、後者が事後。本願のひかりに遇った〈後〉では、「定散自力の称名」は方便の教えとして説かれていると有り難く受け止めることはできても、ひかりに遇う〈前〉に「臨終の来迎を待ち一心に念仏するべき」と言いますと、それは「いまだ真実の信をえざる」と厳しく批判されることになるのです。
 では、本願のひかりに遇った〈後〉でどのような語りができるでしょう。
 これまで繰り返し述べてきましたように、「どうすれば」本願に遇うことができるかを語ることはできません。そのように語る人がいるとしますと、その人は自分の力で本願に遇うことができたと勘違いしていると言わざるをえません。自分の力で本願に遇うことはどうあってもできませんから(それはそもそも概念矛盾です)、「どうすれば」本願に遇うことができるかを語ることはできません。語れるのは、本願に遇うとはどんなに素晴らしい経験か、そして自分はどのような経緯で本願に遇ったかということだけです。「どうすれば」ではありません、「どんなときに」遇ったかです。
 世に妙好人とよばれる人たちのことが語り継がれていますが、彼らが残してくれているのは、どんなふうにして本願に遇うという不思議な経験が起こるのかということです。それは一人ひとりみな違っていて、そこに妙好人伝を読む醍醐味があります。ですから、どれほどたくさん妙好人伝を読んでも、そこから「どうすれば」本願に遇うことがきるかを知ることはできません。でも「どんなときに」、「どんなふうにして」本願に遇うという経験が起こるのかを教えてもらうことができ、なんともしみじみとした味わいを得ることができるのです。

タグ:親鸞を読む
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