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『浄土和讃』を読む(その126) ブログトップ

仏智不思議をうたがひて [『浄土和讃』を読む(その126)]

(9)仏智不思議をうたがひて

 では本願のひかりに遇う〈前〉はどうでしょう、次の和讃はそれをうたいます。

 「安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは 仏智不思議をうたがひて 辺地・懈慢(へんち・けまん)にとまるなり」(第67首)。
 「浄土往生ねがいつつ、他力の信をえぬひとは、仏の智慧をうたがって、仮の浄土にすえおかる」。

 一心に「往生したい」と願ってはいるが、自分が願っているなかで、実はそのように願われているという肝心なことに気づいていないひと、つまりまだ本願のひかりに遇っていないひとが他力の信をえていないひとです。そして他力の信をえていないということは、仏智の不思議を疑っているということに他なりません。自分がこころから願い、必死に精進することで往生を呼び寄せようとしているのです。そのようなひとは「辺地・懈慢にとまる」と言います。
 浄土には、真実の浄土のほかに方便の浄土があり、疑城・胎宮とか辺地・懈慢とよばれることはこれまでも出てきました(第4回-16)。そこで親鸞は『無量寿経』に説かれる七宝で荘厳された講堂や菩提樹について「方便化身の浄土なり」と言っていたのでした。さて、本願のひかりに遇い、他力の信をえたひとは真実の浄土へ往生できるが、ひかりに遇うことができず、したがって真実の信をえていないひとは方便の浄土にとどまるということをどう理解すべきでしょうか。
 ここで思い出したいのは「即得往生」です。信をえたそのとき往生することが「即得往生」でした。「聞其名号、信心歓喜、乃至一念、…即得往生、住不退転(その名号を聞き、信心歓喜せんこと、ないし一念せん、…すなはち往生をえ、不退転に住せん)」(本願成就文)の「即得往生」です。真実の信をえたひとはただちに真実の浄土へ往生できるのですから、いまだ他力の信をえていないひとはそのまま方便の浄土にとどまると考えるべきでしょう。真実の浄土へ往くのが来生でないように、方便の浄土も来生のことではありません。

タグ:親鸞を読む
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