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『浄土和讃』を読む(その127) ブログトップ

何がほんとうの幸せか [『浄土和讃』を読む(その127)]

(10)何がほんとうの幸せか

 往生したいと切に願い、諸善を積もうとするひと(第19願の機)や、往生のために一心に念仏をしようとするひと(第20願の機)は、方便の浄土にしかいけないが、往生したいと願うなかで、生きとし生けるものを往生させようという大いなる願いがかけられていると気づいたひと(第18願の機)は、真実の浄土へいくことができる。それは命終わってからのことではなく、「いま、ここ」でのことです。
 往生したいという願いは、平たく言えば幸せになりたいということです(因みに極楽とか安楽と訳されることばも、その元はスカーヴァティというサンスクリットで、「幸せのあるところ」という意味です)。としますと、真実の浄土へいくのと方便の浄土にとどまるのとの違いが何かは、結局、何がほんとうの幸せか、幸せとは何かという問いに行き着きます。
 親鸞が七宝で荘厳された講堂や菩提樹を「方便化身の浄土なり」と言っていたこと(第35首)をいまいちど思い起こしましょう。幸せのあるところとして金銀財宝で飾られた世界を思い描くのは方便にすぎないということです。そんなところにほんとうの幸せがあるのだろうかと言っているのです。そういえば『無量寿経』の「三毒・五悪段」とよばれるところ(おそらく後につけ加えられたのだろうと推測されていますが)に印象的な一節があります。
 「田あれば田を憂い、宅あれば宅を憂い、牛馬(ごめ)六畜・奴婢・銭財・衣食(えじき)・什物(じゅうもつ、家財道具)、またともにこれを憂う。…田なければまたこれを憂いて、田あらんことを欲い(おもい)、宅なければまた憂いて、宅あらんことを欲い、牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なければ、また憂いて、これあらんことを欲う」。田畑屋敷は、あればあるで、なくなったらどうしようと憂い、なければないで、どうすれば手に入るだろうと憂う。身につまされます。

タグ:親鸞を読む
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