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『浄土和讃』を読む(その129) ブログトップ

眼が「わたし」となって [『浄土和讃』を読む(その129)]

(12)眼が「わたし」となって

 「幸せになってほしい」という声が仏たちや菩薩たちから届いているはずなのですが、どういうわけか、なかなか聞こえないのは、前にも述べましたように、何らかのバリアをみずから張っているからに違いありません、そんなことをしていると思いもせずに。同じことを繰り返し言うことになるかもしれませんが、改めてどんなバリアを張っているのか考えてみましょう。
 ぼくらはひたすら「幸せになりたい」と願っていますが、そのとき眼は必ず前を向いています。前に、どうしてか分からないが身体が苦しくてたまらないときのことを考えました。そのとき何が苦しいかと言えば、「ただいま」身体が苦しいということよりも、「これから」どうなるか分からないことが苦しいのだと。そんなとき眼は「これから」に向いていますが、「幸せになりたい」と願っているときも眼は「これから」に向いていて、どうすれば幸せになれるのだろうと必死に慮っています。
 眼が「これから」に向いているということは、眼が「わたし」になっているということに他なりません。
 眼が「わたし」になって、どうやって幸せを摑もうかと虎視眈々と前方を睨んでいます。ヒョウだって、どうやって捕らえてやろうかとジッと前方の獲物を見つめますが、ヒョウの眼は空間的な前方を見つめるだけで、時間的な前方を睨むことはありません。腹を空かせたヒョウはどうやったら空腹を満たすことができるかを慮るだけで、「明日の幸せ」を慮ることはありません。彼らには「わたし」がないからです。仏教は無我を説きますが、彼らにはもともと「わたし」がありません。彼らはもとから無我です。われらだけが進化の過程で「わたし」を持つことになったのですが、「わたし」を持つとは「明日のわたし」を慮るということです。
 因みに無我とはサンスクリットで「アナートマン」で、「アートマンにあらず(アートマンはない)」という意味です。そして「アートマン「とは時間的に変化しない「わたし」のことで、「昨日のわたし」と「今日のわたし」と「明日のわたし」は同じ「わたし」です。眼が「わたし」になるとは「今日のわたし」が「明日のわたし」をジッと見つめるということです。

タグ:親鸞を読む
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