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難の中の難、この難に過ぎたるはなし [『浄土和讃』を読む(その131)]

(14)難の中の難、この難に過ぎたるはなし

 本願に遇うことの難しさについて、次の和讃はさらにこううたいます。

 「一代諸教の信よりも 弘願の信楽なほかたし 難中之難(なんちゅうしなん)とときたまひ 無過此難(むかしなん)とのべたまふ」(第70首)。
 「釈迦一代のおしえより、本願の信なおかたし。難の中なる難といい、この上なしの難という」。

 もとの「流通分」の文は「もしこの経を聞かば、信楽受すること、難の中の難、この難に過ぎたるはなし」とあります。聖道門は難行道であるのに対して浄土門は易行道であると言われるにもかかわらず、本願の信ほど難しいものはないと言われるのには戸惑いを覚えますが、見てきましたように「わたし」と「時間」のバリアが張られているとしますと、それをかいくぐって本願の声を聞くのは「難の中の難、この難に過ぎたるはなし」であるのもむべなるかなとも思います。
 この「難しさ」には独特の趣きがあります。普通は何が難しく、何が易しいかは事前に見当がつくものですが、本願の信の難しさは、事後になってはじめて了解できるのです。本願に遇ってはじめて、ああこれはとんでもなく難しいことだと納得できる。遇う前はといいますと、難しいも易しいもありません、本願のない世界を当たり前の世界として生きているのです。まさか自分で本願をブロックしているなどと思いもしないで。
 ぼくらは本願に気づくと同時に、それをブロックしているバリアにも気づくということです。
 これまた普通は、まず障害となっている事柄を見いだし、それを除去することでようやく目標に至るものですが、いまの場合は、障害に気づくことがそのまま目標に到達することなのです。本願に気づいたとき、同時に、いままで気づかずにいたのは、「わたし」を身にまとっていること、「時間」の眼鏡を通して世界を見ていることがバリアになっていたのだと気づくのです。そう気づいたからと言って、バリアがなくなるわけではありません。いままでと何ら変らず「わたし」を身にまとい、「時間」の眼鏡をかけたままです。ところが、それがバリアになっていると気づいたそのときが本願に気づいたときなのです。

タグ:親鸞を読む
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