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無我ということ [『浄土和讃』を読む(その133)]

(16)無我ということ

 「大経和讃」の最後です。

 「聖道権仮(ごんけ)の方便に 衆生ひさしくとどまりて 諸有(しょう)に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ」(第72首)。
 「聖道門の方便に、衆生ひさしくとどまりて、迷いの世界流転せり。本願海に帰命せよ」。

 「念仏成仏これ真宗」なのに、みんな「聖道権仮の方便」の教えにとどまり、迷いの世界を右往左往しているというのです。「諸有」は「さまざまな迷いの世界」という意味ですから、「諸有に流転」とは、迷いの世界を次々と生死流転するということですが、ここでは今生において迷いの中をウロウロさまよい歩くというように理解すべきでしょう。しかし、どうしてこうもみんなが権仮の世界をさまようのかと言いますと、自分で張りめぐらせているバリアに妨げられているからです。
 聖道門の人たちは、無我こそ釈尊の教えの中核であることを承知し、それをどうにかしてわがものとせんと日々さまざまな修行に打ち込んでいます。しかしここには根本的な錯誤があります。無我を「わがものにする」という錯誤です。
 釈迦は、無我とは「わたしに囚われない」ということだと教えてくれます。さて、これを聞いて、「そうか、悟りをひらくというのはわたしに囚われないようにすることか、しかし、いったいどうすればわたしに囚われないようにすることができるのか」と思い巡らします。そして、さまざまな書物を読み、いろいろな師については、勧められる修行に一心に打ち込む。これが無我を「わがものにする」ということですが、ここには何ともならない矛盾があります。
 「わたしに囚われないようにしよう」と努力している人に尋ねてみましょう、「わたしに囚われないようにしようと努力しているのは誰ですか」と。「もちろんわたしです」という答えが返ってくるでしょうが、そのときその人は「変だな」と思わないでしょうか。「わたし」が「わたしに囚われないように努力する」とはどういうことか、と。「わたし」が努力して「わたしに囚われないようになる」ことは金輪際ありません。
 釈迦が無我と言ったのは、「わたしへの囚われ」が真実の声をブロックして聞こえないようにしていることに気づくことに他なりません。そしてそう気づいたときには、もうすでに真実の声に気づいているのです。

              (第7回 完)

タグ:親鸞を読む
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