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『浄土和讃』を読む(その139) ブログトップ

そうなるべくして [『浄土和讃』を読む(その139)]

(6)そうなるべくして

 さらにつづきます。

 「耆婆大臣おさへてぞ 却行而退(きゃくぎょうにたい)せしめつつ 闍王つるぎをすてしめて 韋提をみやに禁じける」(第77首)。
 「耆婆はつかに手をかけて、身構えながら後ずさり、王につるぎをすてさせる。韋提は獄に閉ざされる」。

 『観経』の勝れた描写はこんなふうです、「ときに二大臣は、この語を説きおわりて、手にもって剣を按(なで)つつ、郤行(きゃくぎょう、後ずさり)して退く。ときに阿闍世は、驚怖(きょうふ)・惺懼(こうく、おそれること)し、耆婆に告げていう、『汝よ、わがためにせざるや(わたしの味方ではないのか)』。耆婆もうしていう、『大王よ、慎んで母を害することなかれ』。王、この語を聞きて懺悔・求救(ぐく、助けを求める)し、すなわち剣を捨て、止りて母を害せず。内官に勅語し、深宮に閉置して、また出さしめざりき」と。
 緊迫した雰囲気に思わず引き込まれます。『オイディプス』も読むものの心を捕らえて離しませんが、『観経』の筆力はそれに勝るとも劣りません。とりわけ「手にもって剣を按つつ、郤行して退く」という場面などは迫力満点です。王に向かって「母を手にかけるようなものは、ここに住ずべからず」などと諫言するのはいのちを張らなければできるものではありません。だからこそ剣の柄に手をおいてにじり下がることになるのです。王は信頼する耆婆(阿闍世の異母兄弟と言われます)まで剣に手を置いているのを見て、ついに思いとどまるのです。
 こうした描写に心が引きつけられるのは、文章力はもちろんですが、事の成り行きに必然性があるからではないでしょうか。そうなるべくしてそうなっていくことに深く頷けるものがあるから引き込まれていくのです。それが運命というものでしょう。仏教では、見えないところでわれらを操っているこの力を「宿業」と呼びます。過去世での生きざまが、知らず求めざるに(とは親鸞の語り口です)、われらをさまざまな行いに駆り立てていると見るのです。

タグ:親鸞を読む
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