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宿業ということ [『浄土和讃』を読む(その140)]

(7)宿業ということ

 ここで宿業について考えてみたいと思います。
 宿業ということばからすぐ頭に浮かぶのは『歎異抄』第13章です。唯円は「悪を怖れないようなものは往生できない」という考えについて、「本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり」と批判します。そしてこう続けます、「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはせらるるも、悪業のはからふゆへなり」と。ここで注目したいのが、本願をうたがうことと善悪の宿業を心得ないことが同列に並べられていることです。
 裏返せば「善も悪も宿業によると気づくこと」と「本願に気づくこと」は同じだと言っているのです。
 ぼくらは善をなそうと思って善をなし、悪をなそうと思って悪をなすのだと思っています。だからこそ「諸悪莫作、諸善奉行(もろもろの悪をなすなかれ、もろもろの善を奉行せよ)」という戒が成り立つのです。それはその通りでありながら、しかし同時に、善をなすべくして善をなし、悪をなすべくして悪をなしているということ、すべてはそうなるべくしてそうなっているという厳然たる事実に気づかざるをえません。そして、善をなすべくして善をなし、悪をなすべくして悪をなしていることが、そのまま「それでよし」と丸ごと肯定されていると感じることが本願に気づくことです。
 善も悪も一切合財そのまま摂取してもらっているという安堵感、これが本願のひかりに遇うということです。少し前にギリシア悲劇は観るものにカタルシス(こころの浄化)を与えるというアリストテレスのことばを紹介しましたが、これも同じことを言っているのではないでしょうか。今日、宿業とか運命などということばには否定的なニュアンスしかないような感じですが、もう一度そこに含まれている豊かな意味合いを見直す必要があると思うのです。

タグ:親鸞を読む
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