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慙は人にはづ、愧は天にはづ [『浄土和讃』を読む(その145)]

(12)慙は人にはづ、愧は天にはづ

 親鸞は「信巻」に『涅槃経』から長い引用をしていますが、それは五逆の罪人である阿闍世も救われるかという問題意識からです。
 阿闍世は父を殺害してたちまち後悔の念にとらわれます。「父を害するによりておのれが心に悔熱(けねつ)を生ず。…心悔熱するがゆへに、徧体(へんたい、身体全体)にかさ(できもの)を生ず。そのかさ臭穢(しゅうえ、くさい)にして附近(ふごん)すべからず」といったありさまで、大臣たちがさまざまに慰めに来ますが、阿闍世は答えて言います、「われいま身心あにいたまざることをえんや。わが父つみなきに、よこさまに逆害を加す。…いはく五逆罪なり。われいますでに無量無辺阿僧祇(あそうぎ、無数)のつみあり、いかんぞ身心をしていたまざることをえん」と。
 そのとき大臣にして医師でもある耆婆(ぎば)がこう言うのです、「よきかなよきかな、王つみをなすといへども、心に重悔(じゅうけ)を生じてしかも慙愧(ざんぎ)をいだけり。…慙は人にはづ、愧は天にはづ」と。耆婆が言うには、阿闍世はすでに「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と自覚しているということです。それだけでもう「よきかなよきかな」です。なぜなら、自分は重病人であると気づくことは、それと背中合わせに、いいくすりがあることに気づいていることですから。機の深信は、裏返せば、そのまま法の深信ですから。
 しかしどんなわけで、自分が病人であると気づくことが、そのままで、いいくすりがあることに気づくことだと言えるのでしょう。病人であることには気づいたが、いいくすりがあることに気づかないということはいくらでもあるのではないでしょうか。いえ、そうではありません、機の深信は、そのまま、法の深信なのです。どうしてかと言いますと、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」の気づきは、自分で得られるものではなく、本願のひかりに照らされて与えられるものだからです。機の深信があるところには、もう隣に法の深信が控えているのです。

タグ:親鸞を読む
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