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如来利他の信心に [『浄土和讃』を読む(その146)]

(13)如来利他の信心に

 さて「観経和讃」の最後です。

 「定散諸機各別(じょうさんしょきかくべつ)の 自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に、通入せんとねがふべし」(第81首)。
 「定散諸機のそれぞれに、自力のこころ消え去って、如来よりくる信心に、目覚めんことたがいなし」。

 「定散諸機」といいますのは定機と散機のことで、定善をなす人と散善をなす人ということです。そして定善とは心を集中して浄土や如来を観る修行のこと、散善とはそれができず散乱した心のままさまざまな善をなすことです。いずれも韋提希の求めに応じて説かれた往生の方法を指し、往生のために自力でなす方便の行をいいます。そして「自力の三心」といいますのは、『観経』に「もし衆生ありて、かの国に生まれんと願う者、三種の心を発さば、すなわち往生す」とあり、「一には至誠心、二には深心、三には回向発願心」とされます。
 このように『観経』に説かれる往生の方法はみな自力の行ですが(「往生の〈方法〉」となりますと、そうならざるをえません)、親鸞はその裏に隠されている釈迦の真意(前にありました「隠密」です)を汲み取らねばならないと言うのです。つまり、「安楽国に往生したい」と一生懸命に願い続けるうちに(これは自力です)、ふと「安楽国に往生させたい」という願い(本願)がかけられていることに気づかされるということです。これが「如来利他の信心」です。本願とは「プールヴァ・プラニダーナ」、すなわち「前の(本の)願い」で、ぼくらが願うとき、それより前にすでに願いがぼくらにかけられているということに他なりません。
 浄土の教えとは、「安楽国に往生させたい」という本願が生きとし生けるものに漏れなくかけられているということ尽きます。それだけです。『教行信証』の「教巻」があまりに短く、何だか肩すかしにあったように感じると言ったことがありますが、それもそのはず、「教え」として取り出せばたったこれだけなのです。問題はそのような本願がわれらにかけられていることに気づくかどうか、ここにあります。それが「難中の難」で、それには「機縁が熟する」ことが必要なのです。王舎城の悲劇の中で韋提希に「機縁が熟した」ように、われらにも浄土の「機縁が熟した」とき、「むかしの本願がいまはじまる」ことになります。

               (第8回 完)

タグ:親鸞を読む
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