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小経和讃 [『浄土和讃』を読む(その147)]

            第9回 三部経和讃(その4)

(1)小経和讃

 「観経和讃」9首に続いて「小経和讃」5首が始まります。『阿弥陀経』は『小経』の名のごとく、きわめてコンパクトに浄土の教えの要点を説いています。一つ目に、浄土とはどのようなところで、そこにおわす阿弥陀仏とはどのような仏であるか、二つ目に、称名念仏によって浄土に往生できるということ、そして三つ目に、十方諸仏がこの教えを讃嘆して、念仏往生を勧めているということがその内容です。『小経』独自のものとしては、三点目の諸仏証誠を上げることができます。
 ともあれ第1首を読みましょう。

 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(第82首)。
 「どんな世界の隅までも、念仏のひと見つけては、逃げても追っておさめとる。だから阿弥陀とお呼びする」。

 『小経』において、釈迦は舎利弗に問います、「汝の意(こころ)においていかに。かの仏を何がゆえに阿弥陀と号すや」と。そして自ら答えます、「舎利弗よ、かの仏の光明は無量にして、十方の国を照すに障礙(しょうげ)するところなし。このゆえに、号して阿弥陀となす」と。善導が『往生礼讃』において、この経文と『観経』の「一々の光明は、あまねく十方の世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」とを合わせ、「ただ念仏の衆生をみそなはして、摂取して捨てたまはざるがゆえに阿弥陀と名づけたてまつる」とうたっているのを受けて、この和讃がつくられています。
 阿弥陀とは「アミターバ(無量光)」、「アミターユス(無量寿)」の「アミタ(無量の)」を音訳したものであることはよく知られています。『小経』の経文は、「かの仏の光明は無量」であることから阿弥陀という、と説くのですが、その光明は「念仏の衆生を摂取して捨て」ることがありませんから、「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる」となるのです。誰ひとり例外なく、すべての衆生を摂取して捨てないからこそ、阿弥陀と名づけるというのです。

タグ:親鸞を読む
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