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恒沙塵数の如来 [『浄土和讃』を読む(その149)]

(3)恒沙塵数の如来

 次の和讃です。

 「恒沙塵数(ごうじゃじんじゅ、無数)の如来は 万行の少善きらひつつ 名号不思議の信心を ひとしくひとへにすすめしむ」(第83首)。
 「数えきれない仏たち、自力の諸善嫌っては、南無阿弥陀仏信ぜよと、ひとしくみなに呼びかける」。

 『小経』独自の持ち味として「諸仏証誠(しょうじょう)」を上げることができると言いましたが(1)、これからそのことがうたわれていきます。釈迦仏ひとりが弥陀の本願名号を証誠する(誠の心で真実であることを証明する)だけでなく、「恒沙塵数の如来」が同じく弥陀の本願名号を証誠するというのですが、それにどんな意味があるのか、あまりピンとこないかもしれません。しかし、ここには大事なメッセージがあります。
 まず考えたいのが「恒沙塵数の如来」がおわすということです。
 阿弥陀仏を信じる浄土の教えは、ユダヤ教やキリスト教などの一神教に似ていると言われることがありますが、「恒沙塵数の如来」が存在するという点で、神は唯一でなければならない宗教とは本質的に異なると言わなければなりません。唯一である神は、この世界から超絶した存在でしょうが、「恒沙塵数の如来」は、ぼくらのすぐ隣に、あるときは小鳥の姿をとり、あるときは犬の姿をとり、また赤ちゃんの姿や、亡き父、母の姿や、妻の姿や、その他ありとあらゆる姿をとって臨在しています。『観経』に「汝よ、いま知るやいなや。阿弥陀仏のここを去ること遠からざるを」とありましたが、仏は、ふと気づくと、すぐ目の前におわすのです。
 しかし小鳥や犬や赤ちゃんや父母や妻などはあくまで衆生であり仏ではありません。衆生と仏の区別がなくなりますと、仏教が仏教でなくなります。仏教とは衆生が仏になる教えなのですから。でも同時に、仏がごく普通の衆生となり、ぼくらのすぐ傍にいることによって、ぼくらは生老病死の不安を抱えながらも、根本のところで安心して生きていくことができるのです。

タグ:親鸞を読む
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