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うしろ姿は仏 [『浄土和讃』を読む(その150)]

(4)うしろ姿は仏

 衆生は仏ではないが、しかし仏は衆生の姿をとって現れるということ、このことをもう少し考えてみましょう。
 唯一絶対の神は、どんな姿も取ることもありません。姿を取って現れた神は偶像に他ならず、偶像を崇拝することは断じてあってはならないとされます。ぼくは若い頃からキリスト教にもひかれるものを感じ、新約聖書のことばのいくつかはいまもこころの糧となっていますが、それはイエスやパウロという「人」のことばとしてであって、ぼくにとってどうにも近づきがたいのが唯一絶対の「神」です。世界から超絶している神とわれらとの間にどのような接点があるのか、それが大きな壁となって立ちはだかります。
 阿弥陀仏も同じじゃないかと言われるかもしれませんが、そうではありません。阿弥陀仏とは南無阿弥陀仏の「こえ」であり、あるいは不思議な「ひかり」に他ならず、その「こえ」も「ひかり」も空の上から降ってくるのではなく、すぐ目の前にいる小鳥や犬や赤ちゃんや亡き父母や妻などからやってくるのです。その「こえ」や「ひかり」の他に阿弥陀仏がいるわけではありません。阿弥陀仏は「恒沙塵数の如来」としてぼくらのすぐ傍におわすのです。
 あるとき散歩道でにこやかに「こんにちは」と声をかけてくださった見知らぬ方は、ぼくにとってひとりの仏です(これまでは還相の菩薩という言い方をしてきましたが、還相の菩薩と仏は紙一重です)。もちろんその見知らぬ方にとって自分が仏であるなどとんでもないことで、ただ行きすがりの人に挨拶しただけのことです。曽我量深氏に「前姿は往相、うしろ姿は還相」という名言がありますが、それをつかわせてもらいますと、その方にとっての前姿は衆生のひとりにすぎないかもしれませんが、ぼくにしか見えないうしろ姿は仏なのです。

タグ:親鸞を読む
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