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『浄土和讃』を読む(その153) ブログトップ

「南無阿弥陀仏」の交響曲 [『浄土和讃』を読む(その153)]

(7)「南無阿弥陀仏」の交響曲

 「本願を信じ念仏もうすものを救おう」という第18願が浄土の教えの核であることは間違いありません。でも、その第18願が確かにみんなのもとに届くためには第17願が不可欠です。「南無阿弥陀仏」のこえとして本願が直に届けられることで、本願がしっかと受け止められるのです。その意味で第17願は第18願の根拠であると言えます。第17願があってはじめて第18願が一人ひとりのもとに届けられ、それに気づいた衆生が喜びの中で、こだまのように「南無阿弥陀仏」を称えることになるのです。「南無阿弥陀仏」とは「(源左)たすくる」というこえに他なりません。そしてこの「救おう」のこえそのものが救いです。
 「小経和讃」の最後です。

 「五濁悪時悪世界 濁悪(じょくあく)邪見の衆生には 弥陀の名号あたへてぞ 恒沙の諸仏すすめたる」(第86首)。
 「濁り果てたる世のなかの、悪と邪見のものどもに、弥陀の名号くすりとて、仏たちみなすすめたり」。

 「みんなを救おう」という願いがかけられているのですよと聞いても、「濁悪邪見の衆生」は「そんなことがどうして言えるのか」と受け付けないかもしれません。そこで一人ひとりに「(源左)たすくる」のこえを届けることで、確かに「みんなを救おう」という願いがかけられていることを信じてもらおうというのです。「救おう」のこえそのものが救いとなるからです。「(源左)たすくる」のこえを届けるのは「恒沙の諸仏」ですが、繰り返し言ってきましたように、諸仏とはいうものの、あるときは牛であり、あるときは散歩道で出会う見知らぬ方に他なりません。
 第17願が第18願の根拠であると言ってきましたが、それでおしまいではありません、第18願が第17願の根拠でもあります。「南無阿弥陀仏」のこえが届きますと、喜びの中でこだまのように「南無阿弥陀仏」となって口からでていきます。本願成就文に「聞其名号、信心歓喜、乃至一念(その名号を聞きて、信心歓喜し、乃至一念せん)」とある通りです。としますと、われらの「南無阿弥陀仏」は諸仏の「南無阿弥陀仏」と響きあい、かくして宇宙に「南無阿弥陀仏」の交響曲が鳴り響くことになります。

                (第9回 完)


タグ:親鸞を読む
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