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安養にいたりてさとるべし [『浄土和讃』を読む(その162)]

(9)安養にいたりてさとるべし

 次の3首はいずれも『涅槃経』にもとづきます。一挙に上げましょう。

 「無上上は真解脱 真解脱は如来なり 真解脱にいたりてぞ 無愛無疑とはあらはるる」(第91首)。
 「無上のさとり、真解脱、如来というも他になし。真の解脱にいたるとき、あらゆるさわり離れたり」。

 「平等心をうるときを 一子地(いっしじ)となづけたり 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし」(第92首)。
 「生きとし生けるものたちを、一人子のよう慈しむ、慈悲のこころは仏だけ、浄土にいたり身にそなう」。

 「如来すなはち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり 凡地にしてはさとられず 安養にいたりて証すべし」(第93首)。
 「如来とはこれ涅槃なり。涅槃・仏性おなじこと。凡夫のおよぶことはなし。浄土にいたりさとるべし」。

 真の解脱とか、愛憎などの煩悩から離れるとか、みんなを分け隔てなく見る平等心など、要するに涅槃の境地や仏性というのは、今生でえることはできず、安養界に至ってからのことです、とうたわれています。今生で念仏し、来生で仏になる、これが浄土の教えの「いろは」です。そしてここが今生で仏になろうとする聖道門との分岐点です。さあしかし、ここから、肝心なことはいのち終ってのちにあり、今生はそのための準備にすぎないとしてしまいますと、親鸞浄土教のいちばん大事なポイントを見落としてしまいます。親鸞の眼はいのち終ってのちに向いているのではありません、あくまでも今生ただいまに向いています。
 ではこれらの和讃にはどういう意味があるのか。
 本願成就文にある「即得往生(すなはち往生をう)」をどう捉えるかということに関わります。本願に遇うことができたそのときに往生をえるとあり、親鸞はここにすべてを解く鍵を見いだしたのでした。この「信楽開発の時刻の極促」において「如来とひとし」くなるということです。「その心すでにつねに浄土に居す」ということです。親鸞はここに最高の法悦を見たのです。さてしかしあくまでも「如来とひとし」くなるのであり、如来となるのではありません。「その心すでにつねに浄土に居す」のであり、「身も心もすでにつねに浄土に居す」のではありません。

タグ:親鸞を読む
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