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現世利益を祈ることのいかがわしさ [『浄土和讃』を読む(その170)]

(3)現世利益を祈ることのいかがわしさ

 世の善男善女は「病気になりませんよう」、「丈夫で長生きできますよう」と神仏に祈っています。ぼくも一方では同じ願いを持ちながら、他方ではそれを神仏に祈る人たちを蔑むというのはどこかが捩れているような感じがします。ぼくが息災延命を願っているのは紛れもない事実ですし、それを素直に認めるところからスタートしなければと思います。でもそれを神仏の力に頼って自分に引き寄せようとするのはどこかおかしいと思うのも確かです。何がおかしいのでしょう。
 ぼくらは何かをしようとして、自分の力だけでは実現できず、誰かの力を借りなければならないとき、「すみませんがあなたの力を貸してください」とお願いします。このように多くの人にさまざまなことをお願いし、またお願いされる中でぼくらの生活は成り立っています。しかし「病気になりませんよう」、「丈夫で長生きできますよう」というお願いはどなたかにするものではないでしょうから(医者でも、そんなお願いをされるのは困ります)、やはり神仏に頼るしかないということになります。
 こうしてごく自然に現生利益の〈ための〉宗教が登場してくるのですが、それが何となくいかがわしいのは、ぼくらが神仏の力を利用しようとしているからです。病気になったとき医者の力を利用してそれを治そうとするように、息災延命を神仏の力を利用して実現しようとする、ここに現世利益の宗教のいかがわしさがあります。誰かの力を利用するときには、お礼をしなければならないように、神仏の力を利用するときも、そのお礼を用意しなければなりません。これは一種の「取り引き」です。ここにいかがわしさの源があります。
 しかしだからと言って息災延命の願いを持たなければいいということにはなりません。いや、その願いは否応なく湧き上がってきます。ぼくにはそんな願いはありません、と言える人がいるでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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