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流転輪廻のつみきえて [『浄土和讃』を読む(その176)]

(9)流転輪廻のつみきえて

 4首目です。

 「南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし 流転輪廻のつみきえて 定業中夭(じょうごうちゅうよう)のぞこりぬ」(第99首)。
 「南無阿弥陀仏となえれば、この世の利益はてもなし。輪廻のもとのつみきえて、若死になどもなくなりぬ」。

 「定業中夭のぞこりぬ」が少し分かりにくいのではないでしょうか。定業とは過去の業により定まった寿命のこと、そして中夭はその途中で早死にしてしまうことです。としますと、ぼくらはできるだけ長生きしたいと願い、あの人はあんな若さで亡くなってしまったと悲しみますが、そんなふうに寿命のことで一喜一憂することがなくなるということでしょうか。「現世利益和讃」の冒頭、第96首に、南無阿弥陀仏にはほんとうの意味での息災延命の利益があるのだとうたわれていました。単に寿命が延びるということではありません、寿命が長いだの短いだのと気にすることがなくなるということです。この和讃も同様の趣旨と理解していいように思われます。
 改めて「死ぬ」ということについて考えてみたいと思います。
 かなりの歳になり、もうそろそろお迎えが来てもいいかなと思うようになっても、今晩あたりでいかがですかと聞かれたら、「いや、もう少しは」と答えるものではないでしょうか。しばしば引き合いに出す『歎異抄』9章の親鸞のことばはその辺りをうまく言い当てています。「また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛にさふらふこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり」。
 「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里」と親鸞はふり返ります。これまで長らく生きてきた娑婆世界はまさに「流転せる苦悩の旧里」というべきで、それはこの世に生まれてからだけでなく、久遠劫より続いてきたように感じられます。前世なんてあるのかどうか分かりませんが(生まれたときの記憶はなく、ましてやそれ以前がどうであったか知る由もありません)、しかし流転という感覚は「あるとき突然」というより「久遠劫より」の方がしっくりきます。

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苦しみの自己増殖 [『浄土和讃』を読む(その175)]

(8)苦しみの自己増殖

 ぼくらは「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして」という病気を抱えています。前にも言いましたように、この病気は風邪と同じで、その原因を叩くことができず、ただそれによる症状を抑えることしかできません。苦しみを抑えながら、煩悩が軽微になるのを待つしかないのです。
 ぼくらの内に巣くう煩悩をよくよく観察しますと、あるきっかけで起こった「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」は、そのまま放っておきますとどんどん自己増殖して手がつけられなくなります。暗いこころはますます暗くなっていくのです。さてそこに南無阿弥陀仏というくすりがありますと、この病気の症状を抑えてくれます。もうどうしようもなく暗いこころに、「お前を必ず救う」という声が灯りをともしてくれ、この自己増殖の悪循環を断ち切ってくれる。
 そして苦しみは、その自己増殖が止んだ途端に苦しみであることをやめるのです。
 病苦の耐え難さは、これからどんどんひどくなっていくのだろうと思うところにあります。がんになった人の話で深く頷かされるのは、最初にがんを宣告されることよりも、一旦は治ったはずのがんが再発したとき、ほんとうに落ち込むということです。苦しさはその終わりが見えさえすれば、さほどのものではないが、いつまでも終ることなく、それどころかますますひどくなっていくだろうと思うとき、こころがポッキリ折れてしまうということです。
 南無阿弥陀仏(「そのままのお前を必ず救う」の声)は、煩悩の苦しみの自己増殖を断ち切ってくれます。そして苦しみが次第に収まるなかで、煩悩そのものも軽微になっていくのです。

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かならず転じて軽微なり [『浄土和讃』を読む(その174)]

(7)かならず転じて軽微なり

 3首目です。

 「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなふれば 三世の重障(じゅうしょう)みなながら かならず転じて軽微(きょうみ)なり」(第98首)。
 「何にもまして功徳ある、南無阿弥陀仏となえれば、三世のさわりことごとく、きっと転じてかるくなる」。

 「三世の重障」とは過去・現在・未来の煩悩ということで、南無阿弥陀仏はわれらの煩悩の苦しみを転じて軽くしてくれるというのです。
 この「転じて軽微」という言い回しに妙味があります。南無阿弥陀仏は煩悩の苦しみを消去してくれるのではありません、煩悩の苦しみを軽くしてくれるのです。われら凡夫について親鸞はこう述べています、「凡夫といふは、無明煩悩、われらがみにみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして、臨終にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)と。まったくもってグーの音もでません。
 南無阿弥陀仏によって、「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして」ではなくなるわけではないものの軽微になるというのですが、それはどうしてでしょう。
 先にこう言いました、南無阿弥陀仏とは「必ず救う」の声で、それが聞こえること自体がもう救いであると。そして「ああ、救われた」という思いが、すべての苦しみの根を断ち切ってくれるのだと。今の場合も、南無阿弥陀仏は煩悩がもたらす苦しみをきれいに消し去ってしまうのではありませんが、その根を断ち切ってくれるのです。生け花は根が切られていてもきれいに咲き続けますが、養分が供給されることはありませんから、実をつけることはありません。同じように、苦しみはその根が断ち切られますと、もう養分の供給がなくなりますから、自己増殖することはありません。
 そして不思議なことに、もうこれ以上ひどくなることはない苦しみは、苦しみであることをやめるのです。

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どうして自分が? [『浄土和讃』を読む(その173)]

(6)どうして自分が?

 七難消滅の利益をえる〈ために〉念仏するのではなく、念仏すると〈その結果として〉七難消滅の利益があると言いましたが、どうしてそんなことが言えるのでしょう。念仏したって火事や水害の災難に遭うことはいくらでもあるじゃないかと思います。それはその通りで、南無阿弥陀仏は災難を避けることができる魔法の呪文ではありません。しかし南無阿弥陀仏で災難がもたらす苦しみを避けることができるのです。七難消滅の利益とはそういうことです。
 さまざまな災難に遭ったときの苦しみの根っこには「どうして?」という呻きがあります。「他の誰かではなく、どうして自分が?」という答えのない問いにもだえ苦しむ。これが苦しみを増殖させているのです。
 天敵に襲われる動物たちを見ていますと、群れの中のある個体が標的になります。そのとき選ばれてしまった個体は「あ、自分が標的になった」とは思うでしょうが、「どうして自分が?」とは思わないでしょう。そこに救いがあります。南無阿弥陀仏は、この「どうして?」という苦しみから逃れさせてくれるのです。災難に遭うことにはさまざまな苦しみが伴います。それを避けることはできません。でも「どうして自分が?」という苦しみの根っこが断ち切られれば、もう苦しみがそれ以上増殖することはありません。そしてさまざまな苦しみも時間とともに和らいでいくでしょう。
 さてしかし、南無阿弥陀仏に苦しみの根っこを断ち切る力があるというのはどうしてでしょう。南無阿弥陀仏とは「若不生者、不取正覚(むまれずば、正覚をとらじ)」の声だからです。「必ず救う」の声が届くこと自体がすでに救いだからです。災難の苦しみの最中にあって、実はもう救われているのです。この「ああ、救われた」の思いが、苦しみの根っこを断ち切ってくれるのです。

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七難消滅の誦文 [『浄土和讃』を読む(その172)]

(5)七難消滅の誦文

 では2首目です。

 「山家(さんげ、比叡山延暦寺のこと)の伝教大師(最澄)は 国土人民をあはれみて 七難消滅の誦文(じゅもん)には 南無阿弥陀仏をとなふべし」(第97首)。
 「天台宗の最澄は、嵯峨天皇にこたえては、世の災難をなくすには、南無阿弥陀仏にしくはなし」。

 伝教大師最澄が『七難消滅護国頌(じゅ)』の中で、日照りや水害や疫病などの災難を消滅させるには南無阿弥陀仏と称えるにしくはないと述べていることをうけての和讃です。この和讃にも引っかかりを感じます。まず「誦文」ということば。同じ音のことばに「呪文」があり、真言密教の陀羅尼のことですが、これを唱えることによりさまざまな利益をえることができるとされます。南無阿弥陀仏がそのような呪文でないことは言うまでもありませんが、さてしかしどう違うのか。それは「七難消滅の誦文には、南無阿弥陀仏をとなふべし」をどう読むかに関わります。
 南無阿弥陀仏を称えれば七難消滅の利益がえられる、ということですが、これはしかし七難消滅の利益をえる〈ために〉南無阿弥陀仏を称えるべしと言っているのではないでしょう。これまた金子大栄氏がどこかで言われていることですが、「いいことをすれば幸せになれる」と「幸せになるためにはいいことをしなければならない」は同じようで違います。電車の中で誰かに座席を譲りますと、幸せな気持ちになります。でも、幸せな気持ちになろうとして座席を譲っても、幸せになれるものではありません。そこに打算があるからです。
 七難消滅の利益をえるために称える南無阿弥陀仏は「呪文」ですが、南無阿弥陀仏と称えて七難消滅の利益がえられたときの南無阿弥陀仏は「誦文」です。さてしかし、どうして南無阿弥陀仏と称えると七難消滅の利益がえられるのでしょう。どういう根拠でそんなことが言えるのか。

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今日も生きておられてありがたい [『浄土和讃』を読む(その171)]

(4)今日も生きておられてありがたい

 一方で「病気になりませんよう」、「丈夫で長生きできますよう」と祈りながら、他方でそれを神仏にお願いするのは何かいかがわしいと感じる、ぼくらはそのはざまで生きているようです。
 さて親鸞は本願を信じ念仏をもうすものには息災延命のご利益があると言います。これはどういうことでしょうか。はっきりしているのは、息災延命のご利益を願って本願を信じ念仏をもうすのではないということです。それでは現世利益の〈ための〉宗教です。親鸞が言うのは、本願を信じ念仏をもうすものに〈その結果として〉息災延命のご利益があるということですが、それはなぜでしょうか。
 本願を信じ念仏をもうすものには、必ず仏になれるとの約束が与えられます。現生に正定聚となるのです。そして仏は無量の寿命があると『金光明経』に説かれています。としますと、本願を信じ念仏をもうすものには無量の寿命が約束されるということです。そして、将来かならず無量の寿命をもつことになるということは、「もうすでに」息災延命のご利益があるということではないでしょうか。
 将来かならず蛙になることが約束されているおたまじゃくしは、いまはおたまじゃくしの姿をしていても、もう蛙のようなものであると言ってもいいでしょう。同じように、将来かならす無量の寿命をもつことが約束されている正定聚は、もう無量の寿命をもつようなものではないでしょうか。
 朝起きて、「ああ、今日も生きておられた、ありがたい」と思えたら、それで一日寿命が延びたということだから、一日一日を感謝して生きることが長寿の秘訣だと教えてくれたのは金子大栄氏でしたか。「丈夫で長生きできますように」と念仏するのではなく、念仏することで「今日も生きておられてありがたい」と思えるから、その結果として長生きできるというのです。なるほどその通りだ、と納得させられたことでした。

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現世利益を祈ることのいかがわしさ [『浄土和讃』を読む(その170)]

(3)現世利益を祈ることのいかがわしさ

 世の善男善女は「病気になりませんよう」、「丈夫で長生きできますよう」と神仏に祈っています。ぼくも一方では同じ願いを持ちながら、他方ではそれを神仏に祈る人たちを蔑むというのはどこかが捩れているような感じがします。ぼくが息災延命を願っているのは紛れもない事実ですし、それを素直に認めるところからスタートしなければと思います。でもそれを神仏の力に頼って自分に引き寄せようとするのはどこかおかしいと思うのも確かです。何がおかしいのでしょう。
 ぼくらは何かをしようとして、自分の力だけでは実現できず、誰かの力を借りなければならないとき、「すみませんがあなたの力を貸してください」とお願いします。このように多くの人にさまざまなことをお願いし、またお願いされる中でぼくらの生活は成り立っています。しかし「病気になりませんよう」、「丈夫で長生きできますよう」というお願いはどなたかにするものではないでしょうから(医者でも、そんなお願いをされるのは困ります)、やはり神仏に頼るしかないということになります。
 こうしてごく自然に現生利益の〈ための〉宗教が登場してくるのですが、それが何となくいかがわしいのは、ぼくらが神仏の力を利用しようとしているからです。病気になったとき医者の力を利用してそれを治そうとするように、息災延命を神仏の力を利用して実現しようとする、ここに現世利益の宗教のいかがわしさがあります。誰かの力を利用するときには、お礼をしなければならないように、神仏の力を利用するときも、そのお礼を用意しなければなりません。これは一種の「取り引き」です。ここにいかがわしさの源があります。
 しかしだからと言って息災延命の願いを持たなければいいということにはなりません。いや、その願いは否応なく湧き上がってきます。ぼくにはそんな願いはありません、と言える人がいるでしょうか。

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息災延命のためにとて [『浄土和讃』を読む(その169)]

(2)息災延命のためにとて

 ともあれ「現世利益和讃」の第1首を読んでみましょう。

 「阿弥陀如来来化(らいけ)して 息災延命のためにとて 『金光明』の寿量品(じゅりょうぼん) ときおきたまへるみのりなり」(第96首)。
 「阿弥陀如来があらわれて、現生利益の経として、金光明の寿量品、説いてはのちに伝えたり」。

 『金光明経』も他の経典と同じく釈迦が説いた(ことになっている)はずですが、ここでは阿弥陀如来が説いたとされます。親鸞は釈迦仏は阿弥陀仏の応身であると見ているのです(諸仏は所詮一仏で、一仏はそのまま諸仏です)。「寿量品」と言いますのは、如来の寿命が無限であることを説くところで、「品」とは今の言い方に直せば「章」です。それによりますと、ある菩薩が「如来の寿命は無量であるはずなのに、どうして釈迦如来は80歳で亡くなられたのか」という疑問をもったそうです。そのとき突然、菩薩のいた部屋の壁が消失して、東西南北の四方から仏たちが現れ、釈迦如来は亡くなられたように見えるかもしれないが、その寿命は無量であると説いたというのです。
 親鸞はここから、本願を信じ念仏をもうすもののご利益として「息災延命」があると読み取ります。
 ぼくらはさまざまな願いをもっていますが、なかでも無病息災・長寿延命がそのいちばんでしょう。どれほどお金があっても、どれほどいい家庭に恵まれていても、病に臥せり、早死にしてしまっては元も子もありません。家の近くに臨済宗妙心寺派の大きなお寺があり、驚くほどの参拝客が押し寄せます。正月などは付近の国道が大渋滞を起こすほどの繁盛ぶりです。このお寺もご多聞に漏れず、現世利益をうたい文句にして参拝客を集めているのですが、その第一はやはり無病息災・長寿延命ではないでしょうか。
 ぼくはこのようなお寺やそこに参る人たちを蔑みの目で見ていましたが、しかしぼく自身、無病息災を願っており、長寿延命を祈っています。ときには「いつ死んでもいい」などと言うかもしれませんが、その半分以上はウソです。それは隠しようもない事実です。この事実を素直に認めるところからスタートしなければ、ぼくの考えていること、言っていることはみな綺麗ごとになってしまいます。

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現世利益和讃とは [『浄土和讃』を読む(その168)]

            第11章 現世利益和讃

(1)現世利益和讃とは

 「諸経和讃」9首のあと「現世利益和讃」15首が続きます。親鸞は『金光明経』などにもとづいて、本願を信じ念仏をもうす人に現世でどのような利益があるのかをうたっています。本願を信じ念仏をもうす人は来世に仏となると説くのが浄土教ですが、では現世では何もいいことがないのかと言うと、とんでもありません。来世に仏となることに伴い、おのずから現世でもいいことはたくさんあります。
 それが現世利益で、親鸞は「信巻」でこう言っています、「金剛の真心(信心です)を獲得(ぎゃくとく)するものは、横(よこさま)に五趣八難(ごしゅはちなん、地獄・餓鬼など悪業にひかれて赴くところ)の道をこえて、かならず現生に十種の益(やく)をう」と。そして現生十種の益として、冥衆護持の益(神々に守られる)、至徳具足の益(素晴らしい功徳がえられる)、転悪成善の益(悪が転じて善となる)などを並べ、その最後に入正定聚の益(仏になることが定まった位につく)を上げます。
 この「現生正定聚」に親鸞浄土教の真髄があることはよく知られています。
 このように現世利益そのものには何も不自然さはないのですが、ここで『金光明経』が取り上げられることに若干の戸惑いがあります。『金光明経』といいますと、国家護持の経の第一として重視されてきたからです。聖武天皇は「国分寺建立の詔」を出し、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせ、国家の平安を祈らせたのですが、そのため寺に『金光明経』が置かれたのです。国分寺は正式には金光明四天王護国之寺と言います。
 ぼくらの頭には、奈良・平安の仏教というのは鎮護国家の律令仏教であり、親鸞に代表される鎌倉仏教はその枠を取り払い一般民衆の救いをめざす仏教をつくっていったという図式があります。ところがその親鸞が律令仏教のバイブルとも言える『金光明経』を持ち出すものですから、「あれ!?」と驚くのです。『教行信証』には『金光明経』は一度も取り上げられていないのに、いったいどうして、と戸惑うのです。

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無碍の仏智をうたがへば [『浄土和讃』を読む(その167)]

(14)無碍の仏智をうたがへば

 ぼくらがくすりを飲むのは、それが病気に効くだろうと思うからです。そこに疑いがあるときは飲みません。まずくすりの効能について吟味した上で、飲んだり飲まなかったりする。当たり前のことです。ところが南無阿弥陀仏という特殊なくすりは、気がついたらもう飲んでいるのです。そしてそのとき素晴らしい効能を確認しています。こころが明るくなっているのです。南無阿弥陀仏というくすりに気づくというのは、それがすでに身体の中にあるのに気づくということです。
 では南無阿弥陀仏というくすりに気づかないというのはどういうことか。言うまでもないでしょう、すでにそのくすりが身体の中にあるのに、そのことに気づかないということです。このくすりはみんなの身体の中にすでにあるのです。「一切衆生悉有仏性」とはそういうことです。ところがどういうわけか、そのことに気づかない。そしてこれまで繰り返し述べてきましたように、あるものに気づかないということは、それが存在しないのと同じことです。
 南無阿弥陀仏というくすりがあることに気づいていない人がいます。その人には、そんなものはどこにも存在しません。ですからそれに気づいた人から「煩悩の病によく効くいいくすりがあります」と勧められたりしますと、「この人は何を言っているのだろう」と訝しく思うに違いありません。その人も日々欲をおこし、腹をたてているでしょうし、それを仏教では煩悩と言うことも知っているでしょう。でも、おそらく欲をおこしたり腹をたてることに煩い悩むことはありません(金子大栄氏が教えてくれましたように、欲をおこし腹をたてること自体が煩悩ではなく、そのことに煩い悩むことが煩悩です)。煩い悩むことがなければ、それに効くくすりも無縁の存在です。かくして「無碍の仏智をうたが」い、その結果「多劫衆苦にしづむ」ことになるのです。

               (第10回 完)

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