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本願相応せざるゆゑ [はじめての『高僧和讃』(その157)]

(7)本願相応せざるゆゑ

 次の和讃です。

 「本願相応せざるゆゑ 雑縁(ぞうえん)きたりみだるなり 信心乱失するをこそ 正念うすとはのべたまへ」(第81首)。
 「仏の願いに沿わぬゆえ、いらぬ思いが乱れきて、真の信心ないことを、正念なきと述べたまう」。

 前二首と同じことを裏返して詠っています。第79首に「利他の信楽うるひとは、願に相応するゆゑに」とありましたが、それを逆にして「本願相応せざるゆゑ、…信心乱失するをこそ」と詠っているのです。本願に相応することが真の信心を得ることであり、逆に、相応しないことが真の信心を失くすことであると。もういちど「本願に相応する」(善導のことばでは「かの仏願に順ずる」)とはどういうことであり、反対に「本願に相応しない」とはどういうことかを考え廻らしたいと思います。
 「念仏して往生せよ」という呼びかけが本願です。それに素直に応じることが「本願に相応する」ことであるのは間違いありません。
 浄土の教えを解説した本にはこう書いてあるものです、「弥陀の本願のいわれを聞いて、それに素直に頷くのが信心です」と。「本願のいわれ」と言いますのは、法蔵菩薩がどういう経緯で誓願をたてられ、それがどのように成就して阿弥陀仏になられたかということです。正信偈でいいますと、「法蔵菩薩、因位のとき、世自在王仏のみもとにありて、諸仏の浄土の因、国土・人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声、十方に聞こえんと」ということ。これを聞いて素直に頷くことができれば、それが信心であり、そしてそれが念仏することです、というように説明してあります。
 さてしかし「本願のいわれを聞く」のと「本願そのものを聞く」のとはまったく別のことです。

タグ:親鸞を読む
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