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希望の灯 [はじめての『高僧和讃』(その217)]

(20)希望の灯

 いま希望の灯ということばをつかいましたが、このことばは道綽から善導、そして法然へとつながる浄土教の本質をよくあらわしているように思われます。
 希望のひかりは「向こうから」やってきます。それは空間的な意味においても「向こうから」ですが、より重要なのは時間的な意味における「向こうから」、つまり未来からということです。未来とは「未だ来たらず」で、それに対して現在はすでに来たりて「現に在る」ということです。すでに来たりて目の前にあるのは耐えがたく不安な日々です。この不安を何とかしてくれるものは未来の安心しかありません。現在には安心が欠けているのですから、それを埋め合わせるには未来に安心を期するしかない。
 具体的に考えてみましょう。
 たとえば大震災で自宅が全壊してしまった人。いまは避難所に身を寄せていますが、あらゆることが意のままにならず、これがいつまで続くのだろうと不安でこころが千切れそうです。そんなとき、二か月後には被災者用の住宅が提供されるという朗報が入ってきたとしましょう。これは「未だ来たらざる」これから先の話ですが、それが信用していいとしますと、どれほど大きな安心を与えてくれるでしょう。「現に在る」状況には何の変化もありませんが、その状況が間もなく終わりを告げると知るだけで、こころの重りが一気にとれるのです。
 道綽から善導、そして法然へと継承されてきた浄土教において、現世は耐えがたく不安な日々です。このいつまで続くか分からない闇夜を生きなければならない人たちに浄土という希望のひかりが未来から差し込んできて、この闇夜が間もなく終わりを迎えることを教えてくれます。それを知ったからといって「現に在る」状況は何も変わるわけではありませんが、でも、こころの重りが取れることで闇夜の不安に耐えていくことができるようになるのです。

タグ:親鸞を読む
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